高輪ゲートウェイ駅から発掘された150年前の鉄道遺構「高輪築堤」のロマンと開発

高輪ゲートウェイ駅前の開発の最中に
150年前の日本最初の鉄道遺構「高輪築堤」が発掘されました。

高輪築堤

以前、埋蔵文化財の取り扱いについて動画でもご紹介しましたが
文化財保護法では遺跡を発見した場合にも自治体の教育委員会へ
届出等を行うよう求めています(同法96・97条)。
さらに、教育委員会はその取り扱い方法を決めることになっています。
現在、区の教育委員会が中心となり調査、今後について検討しています。

視察では、JR東日本の担当者と港区の学芸員の方から
ご説明をいただきました。

高輪築堤の歴史

高輪築堤とは1872年(明治5年)に国内初の鉄道が開業した際に、
海上に線路を敷設するために築かれた鉄道建造物です。
明治政府は、1896年(明治2年)に首都圏東京と開港場であった横浜を結ぶ
約29kmの鉄道建設を決定。
しかし一説によると、高輪周辺の土地は国防上必要であるとの理由で、
兵部省が鉄道当局への引き渡しを拒んだため
本芝から高輪海岸を経て品川停車場に至るまでの約2.7kmの区間は
海上に築堤を建造し、その築堤の上に列車を走らせることとしました。

高輪海岸の歴史

現在の第一京浜国道は、江戸時代には東海道として知られており
海岸線を通る主要幹線道でした。
特に泉岳寺周辺には、泉岳寺だけでなく、三田の寺町としても知られるほど寺社が多く集積する地域でした。
高輪ゲートウェイの駅名の由来にもなった「高輪大木戸跡」は、江戸の玄関口として設置された木戸を支える石造構造物です。
この地域は、赤穂浪士で有名な泉岳寺、幕末に黒船を迎撃するために建設された台場、そして今回出土した高輪築堤を走る鉄道など、江戸から明治初頭にかけて多くの名所がある地域として浮世絵などにも残されています。

発掘された高輪築堤

私も住んでいる芝浦を含め、第一京浜は海と隣り合わせでした。
そのため明治政府が東京と横浜を結ぶ鉄道建設のため石垣の上にレールをひき鉄道。
今回の高輪ゲートウェイ駅の開発で、山手線や京浜東北線の線路の場所が変わりました。
線路を外し動かし移設した後、それまで山手線が走っていた線路の下を発掘したら、高輪築堤が出てきたということです。
そもそもこの高輪築堤が残っているかどうかわかっていなかったそうです。

築堤の上に当時レールが轢かれていたわけですが、当時の鉄は貴重だったため、この線路の役目が終わったときに、レールの鉄は他の建造物に流用されていたようで、築堤は発掘されましたが線路は出てきませんでした。(今後の調査で出てくる可能性はあります)

今回、水路も出てきました。水路は第1~8橋梁まであり
第5橋梁は現在の本芝公園の芝と芝浦を結ぶトンネル付近
第6橋梁は札の辻
第7橋梁がこの写真です。


新橋から5つ目の橋、6つ目の橋、7つ目の橋を指します。

この線路が使われなくなった際に、築堤を埋め立てため、埋め立ての土の中から、当時の瓶などが出てきたりもしています。

また石垣に使用されている石は、工区ごとに建設会社も使われている石も違うようで、ある箇所では台場の石が使われているのではないかと文献から推測されるそうです。

このロマン溢れる高輪築堤ですが、
JR東日本による高輪ゲートウェイ駅周辺の開発に大きく影響するため
どこまで保存できるのかなどはこれからの課題となっています。

通称おばけトンネルは、約12年の工事期間を経て新しく生まれ変わります。

現在工事中のため、歩行者のみが通行できるようになり

山手線などが間近に見られるようになっています!

さらにうちから見た高輪ゲートウェイ駅周辺の開発の様子

上から高輪築堤も頑張れば見えます。

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